2016年7月5日火曜日

原初的な疑い


地湧社が創立以来出してきた月刊誌「湧」の1986年発行の第1号から、巻頭言を土日を除く毎日1編ずつ掲載していきます。

(月刊「湧」1993年5月号)

原初的な疑い


 中国南東の僻地を訪れたとき、そこの銀行で外貨両替を申し込んだところ、三人の行員がか
わるがわる紙幣を透かし視したり、困ったような顔つきで私の顔を見たり、長い時間かかって
ようやく両替してくれた。この体験があって間もなく、大阪で大量の偽札が発見された。やは
り贋金づくりは絶えないのだと思った。平穏に慣れきっている今の日本人である私達は、貨幣
の真偽はもちろん、貨幣経済そのものの欺隔性などという大それた原初的な疑いはとうにもち
得なくなっている。
 これと同じように日頃注意を払うことが少ないものに私達が毎日飲んでいる水がある。日本
人が使う飲料水はかつて井戸または湧水、河川の流水などから直接汲んで使っていた。それが
水道給水方式が普及して間接的な入手方法になり、水の身元がやや不確かになった。しかし、
ここまではなんとか大地から私達の口まで一応連続していたと言えよう。ところが最近、水を
ビン詰やカン詰にして販売することが急速に普及しはじめた。しかもその価格がガソリンより
も高価なのだ。水はいのちと言うから、ここでは価格のことはとやかく言うまい。だが、一旦
大地から切れて商品化してしまった水が、水の生命的機能をどこまで保ち得るか疑わしい。
 貨幣のもつ機能や水の本質的な力を保証する主体に、なんら原初的な疑いをもたない私達。
あえて付け加えるならば、実体から乖離した言語の氾濫に気づかずにいる私達。現代は一つ一
つの生活のもとになるものが抽象化、間接化されている。それに慣れきっていつの間にか国ぐ
るみ、世界ぐるみ、詐欺行為の温床をつくり合っている。(MM)
                         1993年5月10日発行

(次世代のつぶやき)
原初的な疑いで、最近気になるのは、ネットの情報です。メールなど知っている人とのやりとりはいいのですが、ネットにあふれている情報には、どうしても信頼できないというか、しっくり来ないのです。
(2016年7月5日 増田圭一郎 記)