2016年4月4日月曜日

実感


地湧社が創立以来出してきた月刊誌「湧」の1986年発行の第1号から、巻頭言を土日を除く毎日1編ずつ掲載していきます。

(月刊「湧」1990年3月号)

実感


 春が来た、春は匂いで感じるのだろうか。光の具合で感じるのだろうか。それとも暖かさだ
ろうか。
 今朝、明るい色のセーターを手にしている自分に気がついた。自分の感じからすると、春を
感じたから明るい色のセーターを選んでいるのではなく、明るい色のセーターを選んでいる自
分に春を教えられたわけだ。
 この頃、夕焼けを見て「明日はいい天気になりそうだ」という心のときめきを感じることが
少なくなった。天気予報で晴と出ても「明日は晴れであるから気分はいいだろうなあ」と意識
はするが、しあわせ感がない。機械や道具、数字や文字、映像などの間接情報にたより過ぎる
と実感の薄い生活になる。
 友人がスリランカに旅行した時、タクシーに乗った。走り出しても速度計が動かないので、
運転手に「故障だ」と言ったら、運転手は、「スピードが自分でわからなくてどうする」と得意
げに答えた。そのユックリズムの運転手の顔は、いかにも運転していることが楽しくてしかた
がないというふうであったそうである。動力を使わずに空を飛ぶ熱気球の飛行訓練では、昇降
計を見ることを厳しく制限される。また、手や顔に感じる微妙な風の変化を読みとることを学
ぶ。安全と楽しみを大きくするために感覚や実感が優先される。
 情報化社会になって生活全般が便利、快適、安全のために構造化してしまい、自分の生身で
状況と呼応することが極めて少なくなった。それでも春はからだの内側からやってきた。(MM)                 1990年3月10日発行

(次世代のつぶやき)
感性的に、行動するチャンスはますます、減ってきていると思います。先日ANAのシステム不具合で大きな障害が出ましたが、そおのように人災や天災で大規模な機械故障が起きたとき、勘が鈍った人達は、対処できるのでしょうか。イマジネーションが湧くのでしょうか。
(2016年4月4日 増田圭一郎 記)